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カテゴリ:北茨城市の歴史( 4 )

北茨城市での歌人・佐藤佐太郎

emoticon-0155-flower.gif佐藤佐太郎の母校「北茨城市立平潟小学校」全景emoticon-0155-flower.gif
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emoticon-0157-sun.gifキリスト教会のオルガンで高木東六と音合わせemoticon-0157-sun.gif
北茨城市にこんなに偉い歌人がいた。
それは、大正から昭和にかけて活躍した近代短歌の歌人の、斉藤茂吉に師事、晩年は、現代歌人協会理事や宮中歌会始選者、「毎日新聞」歌壇選者などを努めた日本短歌界の第一人者である‘佐藤佐太郎’そのひと。

彼は幼き頃、両親と共に宮城県柴田郡大河原町から茨城県多賀郡平潟町(現北茨城市)に移り住み、平潟尋常小学校を卒業して多感期の16歳まで平潟の港町で過ごした。
彼は、上京して岩波書店の店員をしながら、大好きな斉藤茂吉の「竜馬子房雑歌」を読み短歌に感心をいだくようになり、自分で作った短歌集も含め、図書出版をやろうとするが失敗し、多事多難な年数を過ごしたりしている。

昭和20年戦争が終わり、昭和22年4月に新しい教育法が制定。名称が「国民学校」から「小学校」の変更と「中学校」が“義務教育”として新規に誕生。同時に学校側も新しい校歌が必要となり、作詞・作曲ができる音楽関係者に対して作成の依頼をしていた。
当時38才前後の佐太郎は、この事を知り、短歌とは異なるが、一時の金儲けのため、住まいの東京から幼き頃住んだ北茨城市に住み込んで、北茨城市立平潟小学校、同石岡小学校、同富士ヶ丘小学校と同常北中学校・日立市立多賀中学校そして、県立高萩高校の校歌を作詞して生計を繋いでした。

しかし終戦から70年経過した現在、北茨城市でも少子化が続いて、今後とも児童(生徒)の増加は見込めなく、教育経費等の削減のため、やむを得ず、来年4月から小中一貫校制を導入して、手始めに関本第一小学校(福田)、冨士ケ丘小学校、関本中学校が統合。その後も随時、市内全てに小中一貫校制を行い、このため学校の名称などが変わり、「佐太郎校歌」の存在は、風前の灯火(ともしび)状態になって無くなる運命にあり、誠に残念である。

※常北中学校校歌は、高木東六作曲・佐藤佐太郎作詞のビックコンビで完成されたが、一時疎開先の旧磯原船戸付近に滞在していた高木東六と佐藤佐太郎が出会い、大津町西町の大津キリスト協会「西丸正教会」内にあるオルガンを拝借使用、何度も二人は音合わせをして完成させた様である。(大津町・大盛屋食堂の奥さんの談)
・このキリスト協会所在地(大津町1375)は、大盛屋食堂、元大津劇場、元銭湯「亀の湯」付近にあり又、教会は我父の生家でもあったが、既に協会施設は無く現在は、民家が建っている。
◎佐藤佐太郎 1909/11/13出生、1987/08/08死去、享年77才

佐藤佐太郎ウィキペディア(Wikipedia)下欄に外部リンクされたブログ名「北茨城市ちょっとした情報」の記事「佐藤佐太郎」に関するものが、10年前作成した別のマイブログにあります。≪(Wikipediaにリンクされたのが一寸自慢かも…。!!(笑)≫ お手数ですが「佐藤佐太郎ウィキペディア」として検索、ご覧ください。 (ウィキペディアとは、インターネット上で利用できる百科事典の類。)

More更に佐藤佐太郎が…
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by reina-g | 2015-06-30 16:11 | 北茨城市の歴史 | Comments(0)

第二回石岡さくら祭りと常磐炭鉱中郷鉱の歴史 北茨城市

emoticon-0155-flower.gif炭鉱当時の世話所が管理されている。emoticon-0155-flower.gif 2008/04/06撮影
emoticon-0106-crying.gif画像をパソコンに入れただけをマイドキュメントに確り入れたと勘違いしてカメラの画像を消去してしまいました。消去した画像は2日間の「日立の桜まつり」と「第二回中郷石岡の桜まつり」そして、孫娘の「中学校入学記念の家族集合写真」です。何かの罰が当たったんでしょうね。この為、当日の桜の画像はありません!!。やむを得ず、予定を変更し「常磐炭鉱中郷鉱の歴史」としましたので、ご覧ください。emoticon-0107-sweating.gif
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emoticon-0157-sun.gif石岡桜まつりと常磐炭鉱中郷鉱の歴史emoticon-0157-sun.gif
4月8日(日)北茨城市中郷町の元常磐炭鉱中郷鉱広場において北茨城市主催「石岡のさくら祭り」行われた。
当さくら祭は、市民ふれあいのイベントとして、当市を支えた基幹産業である常磐炭鉱の往時を辿りながら市民と地域のコミュニケーションを深め、当市の活性化と発展に寄与するとともに、地場産品の販売を通して観光客に広く当市をPRすることを目的としてセッティングされたもの。
さらに、本年においては、震災からの復興へ向け市民に元気を取り戻していただく機会としての目的もある。
当日の桜の開花状況は、寒さが続く異常気象のため、一輪も開花してなく蕾状態であったが、 〇一般参加による「素人のど自慢大会」 〇各種団体による演奏、合唱などとして「石岡小学校生徒による合唱」、三味線演奏 〇地場産品展示即売・地元スポーツ少年団・PTAなどによる模擬店など 〇野立てとして、桜の木の下でのお茶会の開催 〇石岡発電所ウオーキング 〇常磐炭鉱時代の写真展 〇昔ながらの駄菓子屋などの売店と〝催し〟が祭の環境をつくり、賑やかな〝さくら祭〟になったようだ。

※常磐炭鉱中郷鉱の歴史
北茨城市は、江戸末期から石炭産業に係わり上小津田の神永喜八は、常磐炭鉱北部地区の操業先駆者として有名である。(ちなみに、南部-いわき-地区の操業先駆者は,片寄平蔵)
その後は、小規模の炭鉱の合併が続き経営が大がかりになり、これに明治30年の国鉄常磐線開通で輸送方法が船・馬車から汽車に変わり大量に市場に輸送できて、更に石炭需要も増え、南中郷駅、磯原駅から京阪神方面に送炭できて益々、炭鉱が発展したことと思われる。
emoticon-0155-flower.gif常磐興産(株)社長室 茨城分室入口にある樹齢7~80年桜の木10本emoticon-0155-flower.gif 2008/04/06撮影
定かではないが常磐炭鉱設立の昭和19年3月以前からあった桜ではと地元の人が教えてくれました。
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emoticon-0155-flower.gif常磐興産事務所前の祠に大切に保存されている石造りの「中郷新抗」の銘板emoticon-0155-flower.gif
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emoticon-0155-flower.gif元炭鉱長屋が今も残り…emoticon-0155-flower.gif
…この周囲は映画「フラガール」のロケ地にもなったところ
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emoticon-0155-flower.gif石炭の道emoticon-0155-flower.gif
私は幼少時に当地に来て、この道路に石炭運搬方法としてベルトコンベア(通称:エンドレス)軌道装置があったのは鮮明に覚えているが,動いていたかは定かでない。石炭は、切羽現場から洗炭場の日棚地区までの約1.5㎞をベルトコンベアで運び洗炭後、国鉄の日棚引っ込み線に入る貨物車で南中郷駅に運ばれた。
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by reina-g | 2012-04-10 03:42 | 北茨城市の歴史 | Comments(2)

奇石・大田坊(だいたらぼう) 北茨城市

emoticon-0155-flower.gif大田坊(だいたらぼう)emoticon-0155-flower.gif2010.03.29撮影
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emoticon-0157-sun.gifこの石の目的はemoticon-0157-sun.gif
200年以上存在しているこの奇石「大田坊(だいたらぼう)」は、北茨城市磯原町大塚地区の田圃の中にあって、昔から「“其始メヲ知ラズ…”“如何ノ因縁ナルヤ分ラズ…”」と何に使われたのか目的が不明だとのこと。又、此の奇石があるところは、美術行政家、思想家・岡倉天心を明治36年に風光明媚な北茨城市五浦地区に案内したとされる地元の画家・飛田周山の生まれ故郷の地でもあり、彼は少年時代と晩年をこの地で過ごしたが、居住していた当時、毎日のように見ていたであろうこの奇石に対して何を感じていたのかを聞いてみたいものである。

emoticon-0168-drink.gif下記については古文書「松岡地理誌」の文中“大田坊”について、書きとどめた内容である。emoticon-0168-drink.gif
「其始メヲ知ラズ、石ニテ男根ノ形ヲ作リ今百姓ト云者世々是ヲ祭リ来ル、此石根入深クシテ動カズ、其石色薄黒ニテ此辺ニアル山石也,其高一尺七、八寸程、廻リ一尺二寸許リ、其形チ未開ノ松茸ニ似タリ、如何ノ因縁ナルヤ分ラズ、此地名ヲ大田坊と云フ。」(松岡地理誌から)

◎「松岡地理誌」とは…
『藩史大事典』(雄山閣)の松岡藩藩史略年表の中に、文化7年(1810)の今から200年前「家臣寺門義周に命じ『松岡藩地理誌』を編させる」とあり、江戸幕府の命令によって、領内の地誌の編成を求められたのに対して、当時の郡奉行の添役として、寺門義周が松岡領の地誌をまとめ、水戸藩に提出したものです。『松岡地理誌』は水戸藩によってまとめられた公文書と考えられる。(北茨城市図書館HPから)
なお、この松岡地理誌は「北茨城市史 別巻2」の中に全文が掲載されている。


※設置してある場所を「松岡地理誌」風にご説明しますと 「設置場所ハ、北茨城市磯原町大塚 長福寺チカクノ田圃ノ中ニアルガ、道ナシニツキ、田圃の所有者ニ迷惑ガ及ビ当画像デ我慢スベシ。」となるでしょう。

emoticon-0155-flower.gif大田坊(だいたらぼう)emoticon-0155-flower.gif
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emoticon-0155-flower.gif大田坊(だいたらぼう)emoticon-0155-flower.gif
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emoticon-0155-flower.gif大田坊(だいたらぼう)emoticon-0155-flower.gif
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by reina-g | 2010-09-24 08:02 | 北茨城市の歴史 | Comments(2)

ロマンが大きく膨らむ車城の山城 北茨城市

emoticon-0155-flower.gif車城emoticon-0155-flower.gif頂上に城があったが、現在は八幡神社がある。
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emoticon-0157-sun.gif兵どもが夢の跡emoticon-0157-sun.gif
今から約400年前、織田信長、豊臣秀吉らが天下取りで活躍した戦国の時代、ここ北茨城市でも、壮烈なる戦いが展開された。
現在戦場となった花園川両岸は、堤防が築かれ、高速道路、県道、市道が縦横に走り、人家が無数に点在しているが、当時は勿論、花園川には、堤防はなく、洪水の度に流れの位置が変わり、川の両岸は、ススキなどが生茂った川原が広く帯を成し、道路は曲がりくねった人馬が通るだけの狭い道幅が続き、集落(戸数)は数える程度、小高い車城からも戦場となった広い原野とその先の磯原町豊田地区までが一望できたのではないかと想像できる。
そして、この状況下に、700余対1000余の騎馬大群が太刀、槍、弓矢で合い戦った〝つわものどもが夢の跡〟が、この地にもあった。

〇郷土研究をされている滑川光潤氏が母校日立一校同窓会誌「東京白亜」に投稿した記事「車城・ロマンが大きく膨らむ車の山城」をご紹介します。(クリックして下さい。)

emoticon-0155-flower.gif滑川光潤氏emoticon-0155-flower.gif
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〇「車実記」から「大北川原合戦に関する記事」をご紹介します。(クリックして下さい。)

emoticon-0155-flower.gif大北川原合戦で戦死した車城主車兵部大輔義秀の供養碑emoticon-0155-flower.gif臼場地区勝沼きい子氏前庭にある。
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emoticon-0155-flower.gif義秀公舎弟八郎武久が馬を深田に落とし、馬上で腹を切ったところemoticon-0155-flower.gif
丸印のところに慰霊の塚があったが、現在は残念ながら埋立てられてしまった。
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emoticon-0155-flower.gif車城年代譜emoticon-0155-flower.gif(画像上をクリックすると多少画像が大きくなります。)
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emoticon-0155-flower.gif市の神様の石碑emoticon-0155-flower.gif下相田地区直線道路になっている先にある。
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by reina-g | 2009-09-04 09:31 | 北茨城市の歴史 | Comments(2)